芦屋十徳釜
芦屋十徳釜を精巧に写し置物としました今から約四百年前まで芦屋には優秀な鋳物師がたくさんいました。これらの鋳物師の多くは金屋町(芦屋橋付近)に居住していたのであります。名工中特に有名な太田氏は、菊桐の御紋の釜を鋳て宮中に捧げ、山鹿左近掾と称せられ世の茶人から菊の釜、桐の釜といわれ、その品位を認められました。
各地の釜師といえども芦屋流の引中心(ひきなかご)という精巧な方法をまねることはできませんでした。
足利義政の東山期に至り茶の湯が流行し、土佐光信の描いた東山殿御好芦屋釜下絵十二種や雪舟の松杉、梅竹の画、狩野元信の放れ駒等画匠の下絵を鋳入したものも多く、名工の作と共にたいへん珍重されました。
茶の湯は織田信長、豊臣秀吉に至って益々盛んになり千利休のような茶人がでましたが、何れの時代にも芦屋釜は高く評価されたのでございます。
釜の原料は附近海岸の砂鉄でありましたが、単に鉄ばかりでなく青銅で梵鐘や仏像等も数多く造られていたのでございます。
本品は郷土の誇りとする芦屋釜鋳造を讃え、先人の偉業をいつまでも広く語り継がん事を願い芦屋釜を写し、芦屋土産として造ったものでございます。御愛玩下されば幸甚の至りに存じる次第でございます。
十徳釜置物
寸法 径12.5㎝×高さ 11.3㎝、材質・製法 鉄の鋳物に塗装
※釜の中に空缶などを入れ花器としてご使用いただけます。
浜松図香炉(筑前芦屋釜写し)
この商品は胴に浜松図で下皿の渕にあられ模様が鋳込まれた小さくてかわいらしい香炉です。胴と蓋が一緒に鋳込まれていますのでお手入れがとても簡単にできます。貴女のセンスで色々な香りをお楽しみ下さい。
寸法 径11.4㎝×高さ 6.8㎝、材質・製法 鉄の鋳物に塗装
茶のルーツ
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茶は鎌倉時代に栄西禅師(臨済宗の開祖)が宋から持ち帰り、明恵上人が栂尾(とがのお)<京都>に植えて喫茶の風習を根づかせたといわれています。茶の湯の成立は足利氏の東山文化時代でその後は千利休などの茶人の台頭となりました。
茶の湯で名を馳せた芦屋釜は、中国の元朝や明朝の工人が彼地の戦乱を逃れ、この地に居付いて始まったともいわれています。また、その後帰化して太田や大江姓(のち山鹿姓も)などを名乗りました。領主麻生氏や周防の大勢力大内氏の庇護もあり、また釜の図柄なども水墨画の雪舟、大和絵の狩野元信、土佐光信などの名匠に描かせて名を高めました。
芦屋釜の特色は、優美な形、挽き中型(なかご)といわれた鋳造技術、地紋の模様、品位の高さにあったといわれています。この名品も江戸時代の寛永年間に、釜煎りの刑に芦屋釜が使われたことから、鋳物師座が取りつぶされたともいわれ、その間四百有余年の歴史でありました。(ガイドブック芦屋より抜粋)
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芦屋鋳物師の名工とルーツ太田、大江、山鹿姓など
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貝原益軒の『筑前国統風土記』によれば、芦屋釜の名工に、菊桐紋の釜を献上して「左近掾」の名を勅賜された山鹿太郎(太田姓)という人がいます。その後はこの菊、桐の紋釜が茶人の間にもてはやされたといいます。この太郎の太田氏の先祖は、十七代前の名が太田刑部大輔原宗房で、それが系図の最初の人となっています。
河口の右岸の山鹿、左岸の芦屋に鋳物師集団は住んでいました。最盛期は室町時代)十四~十六世紀)で、室町末期の工人大江信秀は守護大名となった大内義隆の応援もあり、高野山や伊勢神宮などに釜や香炉を寄進しています。この芦屋鋳物師の製品には、釜の他に梵鐘、鰐口(大きな鈴)、香炉、仏像などがありました。
芦屋の太田氏の最後は太田新左衛門となっています。この太田氏の他に大江、長野などの姓がみられます。これら芦屋の鋳物師は、その技術を持って移住し、京芦屋、越前芦屋、伊勢芦屋などの分派も生み出したともいわれています。(ガイドブック芦屋より抜粋)
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